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江華島事件と雲揚

江華島 明治8年(1875)9月 日本の軍艦「雲揚」(270t)が
仁川と江華島の間の水路で給水の為のボートが
接近したときに江華島の草芝城砲台から砲撃を
受けました。 (地図で四角で囲んだ場所)

江華島は朝鮮の首都「漢城」の側を流れる漢江の
下流にあって首都を守る重要な場所でした。

朝鮮時代の末期 大院君は鎖国を国の方針と
していました。
またキリスト教禁止令で多くの神父や信者を
殺害したようです。

母国神父の殺害を理由に1866年フランス艦隊が
1871年には米国艦隊が江華島を攻めましたが
苦戦の末 撃退に成功しました。

政権が大院君から息子の高宗になっても鎖国
政策は継続していました。

日本は対馬藩が釜山で外交窓口をしていたのを
廃して外務省が日本として外交を統括すること
朝鮮に認めさせたいと思っていました。

軍艦「雲揚」

雲揚は小型の測量船ですが洋式砲を2門
装備していたのでこれで反撃しました。

朝鮮の砲は1発が雲揚の上を通過した
だけで他の弾は艦まで届きません。

翌日 南にある永宗島の砲台を砲撃
陸戦隊を上陸させて戦闘砲台や家屋を
破壊し戦利品を持って長崎に引き上げました。

この錦絵は陸戦隊の戦闘を描いています。

JR高速船ビートルは164トンなので
雲揚は2倍よりすこし小さい程度です。
明治9年10月 紀州阿田和浦海岸で沈没
雲揚の砲撃事件がきっかけで朝鮮の開港の約束である修好条約が出来ました。

日本の公式記録では偶発的な出来事と記されていますが 開国を強要する為の 計画的な
事件であるとする説も多数あります。
単艦で行動していた点を重く見て、私は偶発的な事件だと考えています。
軍艦の作戦行動だとすると複数の軍艦が行動するのが海軍の常識です。
270t程度の測量船の1隻だけで開国の為の軍事行動を計画することはありえません。

米国や仏国は数隻の大型軍艦と陸戦隊が数百名で戦って
攻略できなかった江華島をわずか2門の砲と22名の水夫が
上陸して勝ったというのが不思議でした。

雲揚の艦長は「井上良馨」、後に海軍大将・元帥までなって
いる切れ者です。
ここにヒントがあるのでは?と思いました。

勝算のない戦争は最悪の選択です。最初の砲撃を
受けた草芝砲台は戦意が高いので、海流が早く水深も
浅いので上陸には不向きと理由を付けて 戦闘回避を
判断します。

勝てる戦闘として選んだのは 江華府に属している城では
あるが離れていて 簡単には援軍が来れない永宗島の砲台を
奇襲攻撃するのです。

江華島に属する砲台を攻略して勝ったことが実績になり、
その後の交渉は日本側に有利に展開し開港の方向に話が進んでいきます。


図は東京経済大学図書館の所蔵の朝鮮錦絵コレクションからご提供頂きました。
このページの図を複製するときは東京経済大学図書館の使用許諾が必要です。

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