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黒橋の跡(寶水橋)

  
黒橋の跡

多くの自動車が走る普通の道路ですが・・・
この道は1986年ごろまでは寶水洞と大新洞を
分ける寶水川が流れていました。

向こう側が中区寶水洞で後ろが西区大新洞です。
川をコンクリートで蓋をして道路にしたのです。

横断歩道付の右側の幹線道路を繋ぐ「寶水橋」がありました。
黒橋の跡

上の写真を拡大しました。
黒橋の追憶碑が道の分離帯にあるのが分かります。

対岸は中区です。中区が橋の記念碑を残す
方針である事がわかります。例:富民橋の跡
黒橋の跡
(クリックすると大きくなり読みやすくなります。)

直訳すると下記になります。(翻訳:O,S様)

------------------以下 翻訳 ---------------------

黒い橋 追憶の碑

この覆蓋川の下を流れる小川はその水の色が宝石のように綺麗であ ったことから宝水川と呼び、
ここに掛けられた丸太の橋を黒い橋と 呼んだ。

黒い橋という名前は腐らないようにする為に丸太の表面部分を黒く 焼いたことに由来しており、
愛国の志士たちが黒い囚人服を着て服 役したことから来たとも言われている。

この黒い橋は 旧韓末から日帝時代にいたる間 、自主独立の為に身を犠牲にした愛国志士たちが
悲運の祖国を嘆き 、 大新洞刑務所に連行された人々を慰労激励しようとした家族たちも また
痛恨の鬱憤を飲み込みながらこの橋を渡った。

1987年以後 この橋はなくなり暗鬱だったこの時代を振り返り この碑を建てた。

中区庁長

------------------翻訳 終了 ------------------------

地図に記された寶水橋(宝水橋)をご覧ください。(大正5年の地図)

この場所に明治の韓国併合から終戦までの日本統治時代に
「寶水橋」(宝水橋)という名称で、 自動車が通行できる
大きな橋が架かっていました。

寶水川にかかる橋なので寶水橋と命名されることに違和感は
ありません。

終戦(1945年)で日本人が引揚るまでは寶水橋が間違いなく
存在していました。

寶水橋:旧漢字:正式名称
宝水橋:新漢字:略式漢字

ここに「寶水橋」があった事と木造の「黒橋」の関係がわかりません

文章を素直に読むと日本統治時代、囚人や家族が木造の「黒橋」を渡ったと記されています。
「寶水橋」が存在していなかったような矛盾した記述です。

独立運動家たちが黒服を着けて、この橋を渡った記述も疑問です。

独立運動家の制服が黒服だという話は聞いたことありません。

容疑者を裁判した釜山地方裁判所は富民町にあり、大新町にあった釜山刑務所との往復に
わざわざ遠まわりして寶水町を経由する可能性は少ないと考えます。

釜山刑務所の囚人服は「あかてん」と呼ばれる浅葱色の半天と
「あおてん」と呼ばれる薄紺の半天であり、黒服ではありません。

囚人服は収容されてから着用するので黒服で外出する記述も無理があります。

「黒橋」の存在や記述に疑問点が多いですが 釜山市中区庁は黒橋記念碑を建て、さらに
釜山市は富平洞5岐路交差点から寶水洞の黒橋跡石碑を経由して東大新洞交差点までを
黒橋路と命名し、3つの町の住所表示で幹線道路名を使っています。

釜山中区庁は寶水橋に何か不満があり、使いたくないという心情が推測できますが
日本時代の町名である寶水町を寶水洞にして、寶水川という名前はそのまま使っています。

寶水橋だけ名前を使わないで、存在が疑問の黒橋を主張する理由がわかりません。

併合以前に木造の「黒橋」が存在してた可能性はありますが、併合前に刑務所は存在しないし
併合前に独立運動も存在しないので無意味です。

ご存知の方ご指導ください。


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